六番町ガーデン

建築史の側から見ても、二度も大きく焼失したこの地域では、古い木造の建物を探そうとすると、失望させられる。区画が大きすぎることなど問題点も多く、分譲は予定通りに進んでいない。この講談所は、のちに裹六番町(四番町匸に移り、さらに表六番町(三番町二四)に移転した。六番町ガーデンである。そうはいってもホームのところで行うのもあまりいいとはいえないので、実用化のときはホームを出た個所で行うことになろう。束京の低地は、過去L〜IL年の間に、卜に自然の運んできた卜砂が積もって陸地となったもの知っているようで知らない「東京の地形」を読む。戦後の闇市の名残を最後までとどめていたマーケット街「恋文横丁」を再開発して生まれたものだ。ご八八〇(明治十三)年、東京府知卦の松川道之は、祁巾計画の構想を府議会に提出し、東京府に市区取調委員局を創設し、官民を問わず噂門家を集め、都市計画に関する検討を求めた。この講談所は、のちに裹六番町(四番町匸に移り、さらに表六番町(三番町二四)に移転した。